大津事件とは、1891年(明治24年)5月11日に滋賀県大津市で、来日していたロシア皇太子(ニコラス・アレクサンドロヴイッチ)の頭を警備の巡査津田三蔵が日本刀で斬りつけたと言う有名な事件(湖南事件ともいう)です。
事件は、皇太子たちが、人力車に乗って行脚していた時でした。
後に、天皇が見舞いに行ったりしましたが、日本はロシアの報復や関係の悪化を恐れていました。国中が大騒乱となりました。
政府の対応・・・
政府は大逆罪をもって、死刑を断行しようと思いました。
しかし、外国皇太子へのそのような行為が、大逆罪に当たるというような法律ではなかったのです。
そこで、時の大審院長(今の最高裁判長)児島惟謙が政府に強く反対しました(それでも有名)。
つまり、児島は、「大逆罪は、皇室に対する罪であり、外国皇太子には相当せず」としたのです。
政府側は、当然それを外国皇太子にも適応できるとしたのですが、児島は、法律解釈上出来ぬことを、他の裁判官らにも託します(根回ししていた)。(これ自身は、やってはいけない事であり、裁判官の独立に反していたと言われる)
つまり、法律条文が無い犯罪には、対処できない。(これに対して幸徳秋水事件は、明治天皇暗殺と言うので、大逆罪としての対処できる法律が有った。そして、法律編纂時に、外国要人に対する法律を作る案がなかったとも言います)
結果、5月27日、通常謀殺未遂として無期懲役刑となったのです。
司法権の独立を戒めた事件として憲法史上、重要な判例事件となった事は、どこにも書いてあります。
この事件自体は、どこか生麦事件と相通じるものを彷彿とさせます。
拡大解釈、類推解釈のみならず、裁判で、適正なる法解釈がされる必要性はいつ時もあります。
津田巡査は「政治的野心はないが、先に天皇に対する挨拶もない」とか、「当時のロシア情勢に対する恐怖心的国民意識も同じくあった」り、「国を憂いた」とか。
又、過去において、「精神障害など親にもあった」というような事実は、今なら、情状酌量の余地ありともされるでしょうか。(当時も、そのような事は無関係としているのです。事が事だけに)
政治が司法に介入するを止めた事や、裁判官の監視役は、裁判長にもあると言います。
ロシアが許してくれた影には、天皇陛下のすぐさまなるお見舞いが功を奏したともあります。又、当時、ロシアは、ヨーロッパとの友好条約が期限切れとなった頃で、そんな時に、アジア極東で戦争をやるわけにもいかなったとも有ります。
当時の明治政府関係者たちの心が怒り心頭と恐怖の中にあったことは、目に見えるようでもあります。
処置判断が通せぬ中で、司法権が台頭してくること自体も、許せなかったでしょう。
しかし、三権分立・司法権の独立を貫いたわけです。
このような事は、いつの時代でも起きる可能性はあります。
それ故、要人のパレードは何処でも、トップ級の警戒態勢です。
以前にも、大企業などでは過去に要人に危害を与える事件が起きています。
どの企業においても、対象は違っても、危機管理の1つとして考慮すべきことでしょう。
※「日本政治裁判史録 明治後編」(第一法規)
※生麦事件:江戸時代(1862)、横浜で、薩摩藩の島津久光の行列の前を、馬に乗ったイギリス人が通った(遮った)ので、周りの侍が切りつけて殺した事件。これは、その後、薩英戦争に発展しました。
※「裁判官の独立」:裁判官は、外部からの不当な圧力には、何ら関係せず、独立の司法権をもつもの。(憲6条、裁判所法81条)
※「大津事件」尾佐竹猛(岩波文庫)…この本が、一番詳細と言われます。
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