1935年2月18日、「天皇機関説」と言う学説は不敬であるとされた事件が起きました。
1.美濃部達吉と言う人を、ご存知な方は、どれくらい見えるでしょうか。
政治家や、学者研究者、メディア関係者、学生、マニア・・・でしょうか。
昔の美濃部亮吉東京都知事の親と言うのも分からないでしょうか。
それくらい過去の人であり、政治史の表舞台に出ていたものの、今や知らない人の方が多のではと思います。
昨今、憲法問題を論議する時は、憲法9条がメインです。
後は、以前あった「夫婦別姓は憲法違反では・・」と言うような場合に、憲法論議がなされます。
それに、天皇と憲法関係では、皇室典範がらみで、他に出てくるのは、昭和天皇と東京裁判に関してがほとんどではないでしょうか。
学問上、憲法論議に出てくるのが「国とは何か」についての「国家論」から多くは始まります。(古代人の哲学から発していることであまりにも難し過ぎますが。)
その中では、国そのものが、「人格」を持つ持たないの視点から、「権利客体説・法律関係説・権利主体説・法秩序説」等の中で、統治権の主体が国家なのか、天皇なのか、両方なのか、などが問われてきました。
本来、日本は神の国で、天皇はその子孫であり、現人神信仰を基に成り立ち、天皇を統治権者としてきました。
旧憲法下において「天皇は、君主であり、元首として統治権を総攬する」ものでした。
2.「国家法人説」=「天皇機関説」
それに対抗し、日本国自身は、法人であり、天皇はその法人の国家の機関で有るとする説=統治権は、国家にあるとする「国家法人説」=「天皇機関説」(1935年)が出てきました。
以下、美濃部達吉について書かれた多くの本から要約しますと・・・
『 彼は、比較法制史を研究していて、後に憲法学・行政学に進み、公法学の大家となりました。
明治においては、法学ばかりでなく、多くの学問がドイツを規範としています。(民法はフランスを)。
イェリネック*やオットーマイヤー*らの研究をなし、やがて、大正時代を迎え、美濃部の説が中核をなし容認され、穂積八束*らの考えに対抗します。
考え方が、「国体」に反する反しないという論議を成されます。(国体明徴運動)言論は統制され、軍部によるファシズム下にありました。
戦後、彼は憲法改正にも呼ばれる存在として花咲きます。
彼は、明治憲法に反論していたのではなく、修正することであって、明治憲法そのものが日本に合っていると考えていました。
そして、行政法への研究は、現在の日本行政法学の基盤が美濃部達吉によって形成されました。』
しかし、1935年貴族院において、陸軍中将菊池の批判を契機に、政友会などの後押しを含め、弾圧を受けます。天皇機関説事件です。
と言われるのです。
日本国憲法では、天皇は日本国の象徴であり、国家機関としての地位は認めない。
が、4条5条の「国事に関する行為」のみ、国家機関としての地位が認められている。
今なら、学説の違いだけで済むような気がします。
天皇を頂点に拝し、軍をもって国を動かす時代故に、少しでも、意に合わないと何でも「非国民・国賊」扱いするファシズム下での誤った国粋主義が横行したなかでの事件です。
「国体」と言う言葉そのものを、本来の国粋主義などから逸脱して、ただ天皇を頂点に置き日本国は成り立ち、その基に国民があると言う超国家主義に走って行きました。
このような考えは、明治期に起こったもので古くはないと言います。
明治に西欧文明を取り入れ近代化を早急になすべく時に、キリストの信仰の基での西洋の近代化のような体制を取り入れるには、天皇を用いるのが良いと伊藤博文らは考えました。
天皇を拝し、日本国はあるとすることで、天皇=国体とする教えが広まりました。
*イェリネック=ドイツの行政法学者
*オットーマイヤー=ドイツの行政法学者・「ドイツ行政法学の父」と言われた。
*穂積八束=憲法学者、1860~1912 「天皇即国家」論を唱える。同年の有賀長雄という法学者に、美濃部より先に、天皇機関説論を示唆される。
※「天候機関説事件」(有斐閣)
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