「何か尋ねるときに、いつも一度で理解するほうですか?」
「同じことは聞きにくいほうですか?」
「記憶力はいいほうですか?」
たとえば、街中で道を尋ねるときに、「ここへはどう行くんでしょうか?」と、誰かに尋ねたとしましょう。それですぐ完全に分かればよいですが。いざ近くへ行ってみると、またわからなくなるということもあります。
その時は、その場で、また誰かに尋ねることもするでしょう。それでOKならいいわけです。
それが、山の中とか、へき地であったりすると、そもそもそこへ行く方法すらわからないことも多いものです。
そこで、こんな風にすることも大事だということをお話しします。
つまり・・・
①一度聞いても、同じことを別の誰かに又聞く(再確認)
②紙などに書いてもらう(確認・整理)
③同じことを何度も聞くことに恥ずかしがらない=相手が違えば、同じことをまだ聞くのかなどということはないわけで、相手にはわからないから。(記憶・度胸・チャレンジ)
④何度も同じことを聞くことで、無理に覚えなくても、記憶しやすいし、その先を予測判断しやすくなることもある。(記憶の整理と確定・推測)
⑤同じことでも、人によって違う情報を教えてくれることがある。ただし、どれも正しいとは限らない。中にはうそを言う人もいるから。(情報確認・新情報の取得・推理・推側・判断力・人を見る力を養う)
同じことを多くの人に何度も聞くことで、「たやすく記憶し、ストレスを減らすことにもつながる方法」と言えます。
私たちは兎角「人の目ばかり気にします」
「怒られないだろうか・同じ事聞いても、いいのかしら・今聞いたばかりなのに、聞き返すなんてできないわ・聞いたけどわからないなあ、あの時聞き直せばよかった‥等々」
こんな経験は誰にもあるはずです。しかし、いざ、その場になると、相手のご機嫌をうかがってしまいます。しかも、仕事ともなると、余計聞きにくいことは多く、聞き返すと、「今言ったばかりだろう」「聞いたばかりだろう!」とどやされることがあります。
しかし、これは正しいことでもありますが、それ以上に、本来間違ってもいることなのです。
人の能力、とりわけ「聞く力・理解力」というのはみんな違うように、100%いつも正確に伝わるとは限らないのです。
「相手といつもかわす話し方だから伝わっている」という前提で誰もが話すので、相手には言ったことが伝わっているはずだと、勝手に推測して会話を続ているだけに過ぎないのです。また、同じ発音の言葉でも内容が全く違えば、意味が異なってしまうということは、経験があるでしょう。
私たちの言動は常にそうです。いつものことだから同じだろう・わかっているはずだ・同じ国民だから・日本語を話しているのだから・同性だからわかるはず・年代が同じだから・・・・このように、「いつもと同じだから」と勝手な推測のものに毎日私たちは生活をしています。また、そうでないと、毎回、なんでも、どのような行動言動はすべて、0から始めなければなりません。
人は認知症という病気もあるように、ある日突忘れるということもあるように、「いつも同じではないのです」
厳しさも必要です。が、優しさも必要です。
時と場合によって、相手を見て話すことの難しさ・大切さを誰もがもっと学べる社会が必要ですが、いつまでたっても変わりません。
だから、誤解の上に誤解が重なるだけでなく「俺が俺が」とか「俺のものは俺のもの・お前のものも俺のもの」「他人事」とか‥世界はずっとてんでんばらばらのままです。人はそれを「文化」とか「個性」とか、「特徴」はたまた「民族性」とも言いますが。
0コメント