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「法の精神」に出てくる日本についての一文

古典的名著であるモンテスキュー「法の精神」(1746年)に「日本の法律の無力さ」という一文が載っています。
この本は、岩波文庫からも翻訳が出されています。
岩波文庫版では、上中下の三冊構成となっており、その上巻第13章180頁にあるのですが、モンテスキューは、1689年生まれで1755没とあるので、日本では、江戸時代、徳川幕府5代将軍綱吉から、9代将軍家重にあたります。


当時(1587年~1755年)の大まかな日本(事件)史を並べると・・・

1587秀吉「バテレン追放令」発布
1600関ケ原の戦い
1603江戸幕府開設
1613家康「キリシタン禁教令」発布
1615武家講法度・禁中並公家諸法度発布
1622元和の大殉教(長崎、宣教師信者55人を斬首火刑)
1633第1次鎖国令(海外在住5年以上の日本人の帰国禁止令)
1701赤穂内匠頭、松の廊下にて人情事件、切腹
1703近松門左衛門「人形浄瑠璃曽根崎心中」・元禄地震
1703赤穂事件46人切腹
1704浅間山噴火
1707富士山噴火。宝永地震
1714大奥「江島生島事件」(多くの人が遠島・死罪等になる)
1717大岡忠助江戸町奉行登用
1721評定所の目安箱設置
1732京保の大飢饉
1742公事方御定書制定
1745長谷川平蔵の火付盗賊改方~1795


そこで、文庫の180頁の最初に「眼を日本に向けてみよう~ほとんどすべての罪は死をもって罰せられる」(1)と書いてあります。この(1)の註書きには「ケンプファーを見よ」とあり、文庫最後には彼について略歴が載っています。

「ケンプファー」とは誰なのか?

ケンプファーとは、ドイツ人医師で、本名をエンゲルベルト・ケンプファーEngelbert Kämpfer(1651~1716)とあります。医者であり植物学者でもあった。オランダ東インド会社の船医となり、1690年に来日。長崎出島オランダ商館に医者として逗留しました。

彼は「日本史」を後に著し、この書は、当時の日本の翻訳家により題名を「鎖国論」と題名がつけられたとあり、その時からこの「鎖国」という言葉が使われ始めたとも書いてあります。

しかし、モンテスキュー自身が日本に来たわけでもありません。彼は、ケンプファーの書いた「日本史」や「オランダ東インド会社紀行文集」などを読んだ・聞いただけに依るものでしょう。
日本法制史を見れば、日本の行刑史上みられる刑罰の主なもには次のようなものが挙げられています。※1
「公事方御定書」という法律ができたのが1742年。秘密の条文が多かったそうですが、そのうちの100ヶ条に書かれているのが「御定書100ヶ条」といい下記の種別があります。


・正刑=一般的な刑罰➨呵責(かしゃく)・押し込み・敲き(たたき)・追放・遠島・死刑
・属刑=付加刑➨晒(さらし)・入れ墨・闕所(けっしょ)・非人手下・引廻
・閏刑(じゅんけい)=武士など身分のある人に正刑にかえて科す刑罰。庶人婦人も含む➨士
   族≖閉門・蟄居・預・永預・改易・切腹・斬罪、僧侶神官=晒・追院・退院・一派講、
   庶人≖過料・閉戸・手鎖、婦人≖剃髪・奴。


これらを見ても死刑ばかりでなく、多種に富んでます。

上述の「~すべての罪は死をもって罰せら~」に相当するのは、多分に、キリシタンに対する拷問の酷さを持ってそういわしめているのではないかと思えます。

キリシタン弾圧令下にあって、当時のキリシタンに対する拷問は、他の拷問に比べると、一層の酷さがうかがわれます。中には、布教活動にかかわったポルトガル人などの外国人も同じような拷問にかけているのです。それらはすべて、残酷なる方法をもって死に至らしめたとあります。

1587年秀吉がバテレン追放令を出すことが始まり、以後、キリシタン禁止令が徳川家康・光秀なども発令します。それは、キリスト教が、「信者は誰でも死んだら天国に行ける」とか封建体制下の日本での天下人を信ずる以上に、一神教のキリストを信じれば、徳川幕府ばかりでなく、日本の仏教も信じない人ばかりになる。日本の神々は大勢いて、それらと幕府はつながっているとしているのに対しても、徳川幕府にとって不都合だというわけです。

しかも、どのような残酷な刑罰を与えても、信者は、却って、どのような残虐な刑罰を受けてもキリスト教の教えにより天国に行ける信仰を持ち耐え続ける人々への恐怖を感じていました。キリスト教の布教者は、ポルトガル人なので、彼らも、追い出します。(ただ、オランダ人は違うので、付き合う。彼らから、西欧の知識情報を得ることで、鎖国していても、世界情勢を知ることができるし、貿易もできる。)

現代では考えられない自殺・不義密通などへの刑罰も晒や死刑であったので、その点も残虐であったと思ったことでしょう。どのような刑罰でも初めには、攻め具として体を叩きにしていることも多いので、死刑でなくとも、それで死んでしまう人もあったでしょう。

 戦国時代は、「礫・獄門・鋸挽」という残酷な刑があり、江戸時代中期まで続いています。ケンプファーの書いた「日本史」には、戦国時代の残酷刑なども書いてあったでしょうから、それらからしても、日本の刑がすべて死刑に通ずると考えたかもしれません。事実、獄門以上には、引回・晒・鋸挽などが必ず付いていた(付加刑)とあります。           

ただ、節日・国忌日・将軍の忌日などには死刑執行をしてはならないというのも決められていたとあります。

当時の刑罰がすべて死刑であったというのも情報不足であったろうと思います。



※1次の書から参照しました。
・日本行刑史(滝川政次郎著)青蛙房
・日本法制史(滝川政次郎編)山川出版社
・日本法制史(石井良助著)創文社
・日本史年表






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