日本の小学・中学・高校までは、文部省の検定に沿った物が使われることになっているのはご存知のところです。
正式には「教科用図書」と言うわけですが、大学の先生に言わせると、この様なテキストを使うのは、邪道だと言います。又、ジャーナリズムにも取りざたされることがあります。
日本をはじめ、韓国でも、東南アジアでは、この種のものが学校で使われているらしいです。
逆に、西欧においては、このようなものは使われないと言うのです。
大学においては、講師の思うテキストが使われるように、西欧では、その使用が、自由になされるといいます。
そもそも、「検定制度」が無いと言います。
つまり、国の思うようにするには、四角四面の中にある情報を詰め込むに限ると言う思考は有るのでしょう。
しかし、それが、義務教育+高校教育においての智識の平等化・世界的レベルの情報の取得のためには一律的な教育が必要である事はわかります。
また、知識レベルを計るにも、同じ土俵でないと評価出来ないと言う事情もあるわけでしょう。
其の一律的なことに、問題があると言われるようです。
一律であれば、思考のパターンも平均化するし、詰込みであっても、国民全体の教育レベルは上がると思うのは想像だにありません。
社会人ともなると、あちらこちらで、「そんなことも知らないの?」と常識を問われることは良くありますが、これは、義務教育を受けているのが当然な時代に生きているから言える言葉でしょう。
学校教育もない時代においては、そのような言葉はあまり使われなかったでしょう。
文字1つ読み書きできない人が多く締めたから。
江戸時代の民衆の読み書き能力は、当時としても、世界的には高かったとも言われますが、ひとつは、「塾」が大いに活用されていたからと言います。
主に「論語」など同じテキストが使われていました。
してみると、ここにも、統一の教育がなされていたに相違ありません。
結論
「検定」からくる統一教育に使われる教科書ですが、基本知識を知ろうとするには、いい教材だと言えます。
改めて、市販されているデータ本などを繙かなくても、必要最低限の知識はすぐさま拾い出せます。
その意味では、学校で使われている「検定教科書」と言うものは、安くて(学校では無料配布されていますが)捨てがたい知識事典です。
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