いつの時代も言われるひとつに、法律の言葉は、難しい、と言われるのがあります。
明治以降、六法は、文語体で書かれていました。漢字とカタカナ交じりの文語体では、当時の人ならいざ知らず、戦後生まれ以降、現代の人では、読みたくもないと思える文章の羅列に嫌気が鼻からさしてくるとよく聞きます。
これは、日本ばかりではなく、フランスでも似たような事があると書いてあります。
日本で、口語文化されてきたのも、左程古くない話です。
中にも書いてあるように、「口語六法」と言う六法全書も出て来ました。
ただ、今や、各出版社が、新かな・漢字は新字体に編集もしているので、ほとんど口語文であるでしょう。
そして、また、文章自体が難解であるのは、未だ多くあります。
この本で執筆されているひとり、加藤一郎*先生が「法律文のありかた」として書かれている中で、次のように書いています。
「法は知らしむべからず,依らしむべし」というのが、専制主義の法律感であるのに対して、民主主義下の法は、「人民の、人民による、人民のための法」でなければならない。
それは法治国家であると言われるためには必然要項でしょう。
次に、
人は理解しがたいものを権威として尊ぶことがある。
と言っていますが、まさにそうで、法律だから難解な文章を当然と受け取るのでしょう。
しかし、国民に分かりやすく、理解しやすい文章が要求されます。
そして、その法律を扱っている職業人を更に権威ある職業=社会的地位の高い職業とのみとらえます。(この事を考える時に思い起こされるのは、アメリカには、その弁護士数の多さには、日本での人数に対し、俄然とするほどの多さに驚かされると言う事があります。訴訟大国と言われるアメリカには、国民一人一人に法律が理解されていると言う感があります。個人の権利の主張に自由性がある国ならでは故と思うところです。)
法律の民主化
旧日本帝国憲法はカタカナ交じりの文語体・漢字文で書かれていました。それがひらがな口語文に変わりました。この変革こそが、「法律の民主化」につながったと言います。
カタカナ・文語体であることからしても、権威主義に基ずくものでありました。それは「専制の表徴」であると学者(穂積重遠)に言わせるほどに、難解であったのです。
まとめ
この本には、法律の難解性について多くの専門家の思いがいっぱいいっぱい詰まっています。
頁を潜る毎に「そうだ、そうだ」と感じながら、読み進むでしょう。
法律がもっと身近になる事こそが、ルールに沿ったお互いの信頼の基に、常に時代に応じ、住みやすい生活を営める社会づくりに益々貢献していきます。
※「法と日本語」林他編(有斐閣新書)
*加藤一郎:民法学者、元東大名誉教授・元東大学長
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