1「オオカミが来たぞお!」と少年が叫ぶと、村のみんなは、逃げ回った。しかし来なかった。嘘だった。
2「オオカミが来たぞお!」と、また、少年が叫んだ。が、またオオカミは来なかった。それを繰り返した。
3「オオカミが来たぞお!」と、またまた、少年が叫んだ。今度は本当に来た。しかし、誰も信用しなかった。そして、少年は、オオカミに食われてしまった。
これは有名なイソップ童話のお話です。つまり、うそをつくなというお話ですが、いつの時代にもこれに似たことは良くあります。
例えば・・・
ネットは嘘が多いとも言います。(ネットばかりではありませんが。)そもそも、情報は、常識だけで判断しやすいものです。その判断は、経験からする感覚・判断力です。ですから、多くの判断は、本人が今まで培った世間の常識として認識している感覚・判断でなされます。世間で問題となる事象の多くに対しては、その情報の信ぴょう性の多くは、情報発信者からだけの言葉を速断で信用し、それが正しいと認識判断します(例「そう?それはひどいね!」「やっぱりそうだったの」)。物事によっては、それしか方法はないし、すべての事象に信ぴょう性を求める必要性もないことが多いからでもあります。情報発信源が、メディアなどであれば無意識に信じます。逆に言えば、関心のないことには、深くかかわらないどころか、聞く耳を持ちません。聞いている暇などないともなります。問題が発生した時に、その情報の正しさを見極めるには、証拠物(又は、原因)が必要です。それが、2つ・3つと出てきたのならば、どれが正しいかは、比較しなければならないでしょう。同等の立場、同じ調査・同じ実験が必要です。この時に人の常識・固定観念だけを押し出すと、判断ミスが起こりやすく、それが例え、初めから「うそ・いつわり・間違い」と感じていても、「うそ・いつわり」と固定・強調しすぎない事が必要でしょう。=もっと、良く調べてから。もっとよく聞いてから・・・が必要でしょう。そうでないと、正確な回答が得られるかどうかより、うやむやになりやすいものでしょう。
風邪をひいたような体の状態の時に、医者に行ったら多くの人はこう言います。
「どうも風邪をひいたようですが」
当然ですが、患者の言葉は、経験則からくる推測にすぎません。そして、この時医者は、それを鵜呑みには普通しません。熱を測り、額に手をやったり、問診を重ねたりします。必要なら、他の検査をします。この時の患者の言葉は、うそ偽りなどなく、医者も当然の処置です。が、これがいつも同じ症状で来院し、軽い風邪で治るのが常だとすると、医者もまただという固定観念が出るかもしれません。実際、調べもしないという事例もあります。医者側も、見抜けない原因がある(実際、初めから正確に分からないことが多い)としても、詳しく検査を必要として調べる医者というのは、その時点においては信頼のおける医者と言えましょう。しかも、患者側が、2度、3度と同じ訴えをすれば、検査すべきですし、おかしいと思わねばいけません。助手や看護師任せではいけません。どこかに、何らかの原因があるのです。本人の気のせいと決めつけるのは最後の段階です。
また、こんなこともあります。
「嘘も百回言えば本当になる。」
嘘も何度も言われると本当のようにも思えるものです。そして、嘘というのは初めに言えば、次の訂正はしにくいものです。次に訂正すれば、言った本人の性格の否定だけでは済まないことにも発展しがちです。ですから、「初めに嘘をついたら最後まで嘘を付き通せ!」ともいうのです。
・十人十色という如く、人によっても、当然判断は色々です。「日本はいい国だ(本当にいい国ですが)」「日本に住みたい」と世界では常識です。しかし、日本に来て、何かの犯罪にあった人にとっては、「日本はひどい国だ」「うわべだけだ」と感じます。これを、「そのひとはかわいそうだったが・・」とか、その人だけの感情と捕らえるだけで終われば、そのところに問題があるのです。「日本はいい国だ」「治安のいい国だ」を連呼すれば、誰もが信じます。でも、何か事件が起きても、酷くない限り、取り上げられない限り、誰も聞こうとしなくなります。
兎にも角にも、物事の判断は、良く調べる必要がある時は、慎重であるべきだと云事です。
うそはいけませんが、うそもついてよいうそと、つくべきウソもあります。
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