先日R6.1.30 名張ぶどう酒事件再審10回目も最高裁にて棄却されました。
最高裁第3小法廷長峰裁判長は、特別抗告を退けました。
5人の裁判官のうち宇賀克也裁判官だけが再審を認めるべく反対意見を出したとのことです。
しかも、裁判長がこの宇賀克也※1裁判官の反対意見をを付けて判決を述べたと言いますが、このようなことはまた初めてのことだと。
名張毒ぶどう酒事件:1961年(昭和36年)三重県名張市の公民館で、農薬の入ったぶどう酒を地元住民女性5人が飲んで死亡した「第二の帝銀事件」とも言われた事件。
元死刑囚奥西勝氏が冤罪を訴え生前9回再審請求を続けたが、9年前(2015年)に、医療刑務所で病死(肺炎)、89歳。妹さんが再審請求をしていた。
【「再審」は、光を見出す最後のとりで】
裁判では「判決=社会的真実」ととらえられやすいですが、すべてが裁判官の裁量ひとつではないのかという事です。
だが、再審は判決をひっくり返えす意味合いである以上、法の支配下にある国家の威信がかかる判決をやすやすと変えることはありませんし、簡単に変えては法治国家としての存立が危ぶまれます。確固たる判断の下になされた判決としての意義があるからに他ならないですから。
(再審請求をしても、再審した後の法律がほとんどないので、すべて裁判所に任され、各裁判官の意向により対応が異なると言いいますが、その点もどうなのかです。)
そこで、一旦確定した刑に対し、無罪を証明する新証拠や明白な疑いがあり、警察や検察の偽証捏造であるとか、それらが明らに納得させるものでないと、裁判長を動かせない。たとえ、科学的検査がなされた結果の信ぴょう性があるという一人の裁判官の意見があっても、新証拠に対して「証拠としての価値がない」(証拠たりえない)という今回のこの裁判長の言葉にはなから「再審の必要性を認めない」という意思がうかがえます。
しかし、そうなると、「再審制度」自体の存在は空虚では?。
それの事例として、過去に、「弘前大学教授夫人殺し事件※2」での免罪事件が、下記の本※3にも掲示されています。つまり、犯人とされ再審請求している中、本当の犯人が名乗り出たにもかかわらず、再審がなされなかった。(下記本の243頁)
その後、1976年に再審がなされ無罪確定。新刑事訴訟下での最初の再審無罪判決となった。那須氏は、国家賠償訴訟を起こすも、敗訴。
ネット検索しても、再審が認められる確率は、2021年「235人中1人」と言います。一旦決定された判決をひっくり返すのがいかに難しいかです。
※1宇賀克也:東大卒、東大大学院教授。最高裁判事、法学者、専門行政法。
著書「行政手続三法の解説」(学陽書房)「番号法の逐条解説」「新・情報公開法の逐条解説」「個人情報保護法の逐条解説」(すべて有斐閣)他。
※2「弘前大学教授夫人殺し事件」:別称松永事件。1949年8月6日、松永教授の夫人が宿泊先で殺され、近隣在住の無職那須隆氏が犯人とされた。この那須氏、驚きは、那須之与一の子孫であるとのこと。この事件については,後藤昌次郎著「免罪」(岩波新書)にも詳しい。この著書「免罪」には、「清水局事件」について述べてありますが、その最後の62頁にも次のように書いてあります、「真犯人を突き止めることができたのは、僥倖である。~僥倖がなければ免罪も晴らすことができないという事は、依然として現代の恐怖と言わなければならない」
僥倖(ぎょうこう):難しい漢字ですが意味は、偶然に得られる幸運。ふって湧いた幸運という意味です。
※3:「名張ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀」(岩波書店)
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