ショウペンハウエルという人は、ドイツの哲学者ですが、彼の著作「意志と表象としての世界」は、多くの哲学者に影響を与えた書として世界的な名著になっています。
哲学と言うと何かはなからこ難しいという意味合いが頭をよぎるでしょうが、この本は、あまり、そういった感じのものでもないのです。と言うと、読んだ人に嘘を言ったようにもなるのですが、要は、哲学用語が出てくるものの、一般文学者・作家がよく書くところの読書論の範疇だけといえば、さして難しいわけでもないのです。ただ、やはり時折出てくる言葉は、哲学的な表現も出てくるのは、意味が分かりにくい思いもします。
・中を少し拾ってみると・・・
「読書は自分の頭でなく、他人の頭で考える事である」
「読書は精神に思想をおしつける」
「読書は思索の代用品にすぎない」
「重要な本は二度読むべきである」
「古書を求むべきで~新刊本は控えるべきである」
「短いことが書名の命である」
「ある本が有名な時には素材のためか、形式のためかをよく区別すべきである」
「悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす」
「良書を読むためには悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」
これらのなかには、今の時代にも言える事でもありますが、「短いことが書名の命である」は、昨今の長い書名がはやる日本の書物を物語っている気もしますがどうでしょう。
全体に流れるのは、要は、良い本を選ぶために読書はするが、究極的には自分の考えを持つ事にその目的があらねばならない・人の考え方におし流されてはいけないと言うのであろうと思います。
この本の中に流れているものが、「意志と表象としての世界」感を持ちながら書かれたものとは同じではないと思いますが、時代背景を見てみるのも、違った感想を抱くかもしれません。
彼の時代は、19世紀に生きて居ますが、当時は、帝国主義が台頭してきます。当時は、ヨーロッパが、戦争で大敗していました。そして、先の書籍においても、時代的にも、世間も厭世感を唱えていましたが、そこから逃れるにはどうすべきかとも考えたのが厭世主義でした。
19世紀と言うのは、懐疑主義・唯物主義・厭世主義などが問われていた時とあります。 戦争をすれば当然国は破壊の中で、すべてが無に帰する思いしかありません。戦勝国と言えども、すべての人が喜びの中にあるのではなく、それが正しき行いであったかと問う人も多くでてきます。そのような世界に生きて居ることで、人間の懐疑心がはびこります。
しかし、20世紀も同じ繰り返しが続きます。
※「読書について」ショウぺンハウエル(岩波文庫)
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