9月に入ると、世間はもう年末支度をしている事を臭わせてきます。
と言って、年末商戦だの、クリスマス商戦だのと言う話が出てくるのは、10月に入ってからですが。
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さて、知っている人は少ないかもしれませんが、戒能通孝という法学者の書いた本に、「法律入門」という(岩波新書)のがあります。
これは著者も言う様に、法学全般を少なくとも垣間見るための内容にはなっていません。著者はそれを読者に対し、何度も懺悔するかの如く謝っています。
そのあとがきにあるのですが、「六法全書」又は「小六法」の類を家庭に一冊揃えなさいと強く話しておられます。
例え中を読まずとも、置くだけでいいと。それだけで、他人(来客者)に威厳を放つものであり、まるで貴方の教養を高めるようなことまで含めた話しかたをします。
法律が、庶民になじみにくいと言う点からすれば、未だに一つも二つも目の上より高い存在感があるのは変わっていません。(この点については有斐閣新書「法と日本語」が、面白いほどとてもよく論じられています。)
変わったのは、国民の高学歴化からくる知識度・教養度が広まり、また、社会が複雑化して、法律に関わる事が多くなったことでしょうか。
しかし、訴訟大国と言われるアメリカの様に、日本国民が誰でも訴訟ざんまいの生活をするような日常にはなっていないのは、ご承知の程です。
それには、まずもって、国民性にもあるでしょうし、訴えれば、金が掛かる・時間が長引く等の理由を筆頭に、そんなめんどくさいことに、小事に対してはやらないと言うのが一般でしょう。
そんなことからしても、日本では、「法律に関わる」と言う事態に会うのは交通事故、相続、営業上の契約、賃貸売買など日常的に遭遇するものであり、あえて、ずべての問題を通して「法律に関わる」状態ではないのでしょう。
又、昨今は、訴訟に至る問題でも、その前で解決しようとするADRもどこにでも整備されつつあるので、「訴訟」そのものに対する感覚自体も変わっていくのではないのでしょうか。
話はそれましたが、確かに、何処の家にも置いてある本と言えば、「国語辞典類」「医学事典」「冠婚葬祭本」ではないでしょうか。
もし、その一つに「六法書」を並べてあると言うのであれば、今でも、目づらしい光景かもしれません。
というのも、著者の時代(昭和初期・中期)からすれば、デジタル社会の昨今では、「本」そのものよりも、パソコン上で検索が早いわけですので、「本自体並べない」と言うのが正しいと言えましょうか。
さすれば、「六法書」が放つ威厳性は、もはやない時代です。それ故、知識・教養度を来客者に放つような場面はありませんし、その必要もないでしょう。
とは言え、家の中に全く本一冊ないと言うところはないでしょうから、やはり「六法書」が一冊どこかにおいてあれば、来客者に対しては違う存在感を与えるかもしれません。
つまり、それほどに「法律」というものが、家庭生活の中では、同じ生活レベルではないと言う事=事が起きた時に、否応なく関わるものだと言う事は全然変わっていない事でしょう。
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