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「人を信じてはいけない」時


「感じが悪い、口が悪い」というと誰もが嫌になります。しかし、話してみるといい人だったという事があります。

ここに一つのネックがあります。

・人を信じたために、えらいことになってと言う話は多いものです。世界平和を誰もが願いますが、果たして、人と人は、信じあっている故の願いでしょうか。


御互いに助け合いながら生きないと人は生きていけないのにもかかわらず、誰もが、我が身だけの守りの為に生きています。その人の世の中で、人を信じることがどれほど危険な事か。


生きていく中で、どれほど、他人から傷つけられることが多いことでしょうか。それに打ち勝って生きなければならないと、親はたしなめます。それが人の世である事を親はときます。ならば、そんな世界で生きている必要はないでしょう。


そこで、死を考えもします。


しかし、それでは、他人の為に死ぬようなものです。反って死ぬ意味がありません。それよりも、彼らをはねのけ、我が身の保身のために生きる方が善作です。


これが人が生きていく実態です。


誰しも、信頼できる友や知人を欲します。そのような人を持つことはとても幸せです。しかし、そのような人を得るのは、まれです。


信頼できると思った人には、社会的地位の高い人もいます。抑々その肩書・地位に惑わされやすいことも事実です。知らないからです。社会的地位なので信頼は出来ません。

医者・議員・弁護士・・などが、多くの事件を起こしているように、信じすぎると、直ぐに相手は、貴方を利用します。信じる時は、いつもより、貴方は少なくとも、他人には言わないことまで、多くの事を話し過ぎてしまいます。


其処にかれらは、足元を見ます。勿論、諸事に対して、表面上は、法律違反もないような言動を取るのでわかりにくいでしょう。


信頼できる人と思った人との会話を重ねる中で、少しでも、不審な事を感じたら、それがその人への信頼の反省時です。

御互いの会話の行き違いも有るので、相手への信頼に対しての感覚が異なる時も有るでしょうが、何度も、会話する中で分かるはずです。

「この人は本当に信頼できるのかどうか」と言う事が。


つまり、どんなに信頼できると思っても、本音を打ち明けるのは、最後です。

そして、話すときは、一杯話し過ぎない事です、どうしても、信頼できると思うと、相手への親密度が増して、言わなくてもいいことや、口数が多すぎてしまうものです。そこを開いては、見ます。

また、信頼していたのにと言う事から逃れるためにも、他の人とも信頼できそうな人を作る事です。その人とも、付き合い方は同じです。全てを打ち明けない事です。二人を比較検討する事も有りです。


往々にして、信頼できると思う人は。「知識など情報が豊かで、話し方が優しく。こちらにとって有利な意見を言ってくれる」と言う事が多いのです。

しかし、人には、「裏と表」がある事を知るべきです。その裏が何処でどう出ているのかは、信頼すればするほど、隠れてしまいます。貴方が、見る目を失っているからです。信用しすぎるからです。


「感じが良い」とか「知識が豊富」とかだけで、相手を「信頼できる人と決めつけてはいけないのです。

<感じがいい=腕がいい>

<感じがいい=いい人>

と言う公式はないのです。

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