普通、病気になったり、事故に遭ったりして、医者から「どこが痛い?」とか「どのような痛みか?」と聞かれても、「どの様に返答すればよいのかわからない=表現の仕方に困る」と言うことはないですか?
特に、今まで経験のしたことが無い痛みであれば、余計にその傷み具合を表現するのは難しいものです。
私たちは、その時、「ここら辺が、○○の様な。xxの様な痛みがあるんです」と位しか答えられません。医者は、それを聞いて凡その判断をしますが、分かり切った症状などが出ていないと、患者の感覚の違いや、表現の違いがあり、余計に判断も付きにくいはずです。
それには、あることが言えます。
・経験をしていない
・経験していても、その言い方や言葉を知らない
等があります。
つまり、赤ちゃんから大人になる過程において、生物は、大人を始め周りから、色々な情報を得ながら言葉も感情も、真似ながら受け入れたり、話したりして「学ぶ=真似る」と言う行動の蓄積を積み重ねます。
これは、その多くは、人の世界・他の生きものや、植物・自然の世界を大まかでも、ほんの少しだけでも、バラバラであっても、概観を少しずつ観念的に構成しながら、知っていきます。
だから、同じようなことは早く身に付きますし、一時的とか、理解しにくいことは、他の方法をもってわかろうとするか、または、関心がないか故に初めから切り捨ててしまいます。
好き嫌いの感情も、生まれ持ったもの・遺伝的なもの・概観的なものから、影響を受けてその情報を取り入れていくのでしょう。
その時の、概観なり、感情也を何度も経験することで、「このような~」「あんな感じの~」と言う様に物事・事象を表現しやすくなります。その傷みなどがどのようなものかはっきり知らなくても、経験の蓄積が表現をしやすくします。
だから、概観を知ると言う事は、病気や事故時の痛みばかりでなく、物事自身をより一層自分にも、相手にも、伝えやすくする手段としては必要な学習の一環だと言う事です。
では、どのようにして自分の思いや感情を表現する方法を学ぶのかと言えば、普段の生活の中で経験する事や、書物から知る事と言うしかないでしょう。
その書物と言うのは、物理なら物理だけの書物を研究・学習すると言うのではなく、多くの違った分野を読書することで知ると言う道を進むことだと言う事です。
人と会うにも、特定の人とのみだけではなく、もっと広い分野の人々、簡単に言えば誰とでも、話すと言う事です。
よく言われるところの「頭を柔らかく」でもあります。
0コメント